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「あー…もうあと20分しかないじゃない」
そう言いながらもあまり急ぐ気になれない。
あんなに楽しみにしていたのに。
「…どうしてかな」
そんなことわかりきっているのに自問してしまうのは、やっぱり心の整理がつかないからだろう。
レインは歩いていた。
周りにはちらほらと自分と同じくらいの年の女の子たちや、もっと年上であろうきれいなお姉さんが足早に歩いている。
たぶん目的地も、その目的すらも一緒だと思う。
今日は、J.Moonのファンクラブイベントがあるのだから。
もちろんいまや飛ぶ鳥も落とす勢いのJ.Moonのファンクラブイベントのチケットなど、そうそう手に入るものではない。
レインだって実際に取れたときには半信半疑で、いざ手元にチケットが届いたときにはファインが煙たがるほど文字通り踊り上がって喜んでしまった。
それなのに今の自分ときたら、もうとっくに開場もしている時間にまだ会場にむかってとぼとぼと歩いている。
急ぎもせず、とまりもせず。
こんな行動の理由はただひとつ、数日前のブライトとの会話のせいだ。
『君のことが、好きだ』
熱っぽく語られた言葉は真摯で、その瞳もまっすぐだった。
嬉しかった。
嫌われていたと思っていたから、だからその言葉はとてもとても嬉しかったに決まっている。
けれどその「好き」の意味が言葉通りの、たとえば敬愛や友愛といった意味の言葉ではないことは、その雰囲気から知れた。
『あの…とても、信じられません』
とても嬉しかったけれど、それ以上に。
そういった意味で好きだと告げられたことに納得できるだけの理由を自分はもっていなかった。
仕事での接点は最近やっと出来たようなもので、それまではただの事務所の先輩後輩としてせいぜいが挨拶をする程度のかかわりだったのだ。
そんな状態で、彼の言葉を鵜呑みに出来るほどレインは楽天的ではなかった。
「…痛っ」
「あ! ごめんなさいっ」
肩に衝撃を感じて振り返ろうとすると、既にその人は前を走り去っていった。
急いでるのだろう、当然だ。
普段のレインだったら、最低でも今より30分は早く来てグッツを買い占めたり席でゆっくりパンフレットを眺めたりするのが常だった。
それをしなかったのはただ単に気鬱で、けれどチケットをふいにすることは出来なかった。
結局は、筋金入りのファンなのだ。
そんな自分にもため息をつきつつ、ずれためがねを直す。
今日のレインの服装は、小花柄のひざ上ワンピースに白いカーディガンを羽織っているのはいつもよりちょっと気合の入った格好だ。
だが、いつもと決定的に違う部分がある。
それがメガネと頭にかぶせたキャスケットだ。
細い黒縁のメガネは度なしで、自身の青い髪は束ねてキャスケットの中に押し込んでいる。
更にそのキャスケットには黒髪のウィッグが取り付けられていて、傍目から見ればレインは黒髪のショートボブだ。
この二つは以前事務所から渡されたもので、大抵の外出のときに使っている。
このおかげで今まで街で声をかけられたことはないし、今も誰も自分が『レイン』だなどと気づかない。
だから安心して外を歩けるのだが、重い足でも黙々と歩き続ければ必ずいつかは到着する。
結局は開演に間に合ってゆっくりと席に着けば、それと同時に会場が暗転した。
今回のイベントは、アンコールなしのミニライヴだと事前に伝えられていた。
暗闇の中、彼らのデビュー曲のイントロが流れると、会場から黄色い歓声が上がる。
そこはやっぱりレインも筋金入りのファンなので、感情とは裏腹に、歓声と低く奏でられるイントロのベース音に勝手にテンションが上がっていく。
そして歌いだしと同時に点灯したステージライトが、二人の姿を映し出した。
直に体に響く音に身を任せる。
「ブライトーーーーーーー!!」
気がつけば周りに負けないくらいの声で、ブライトを名を呼んでいた。
これはもう体に染み付いたような感覚で、いっそ反射に近い。
さっきまでうだうだと考え込んでいたことが全部吹っ飛んで、目の前のステージに否が応でも集中してしまう。
ステージの中央でシェイドがスタンドマイクを握り締め、その横でブライトがベースをかき鳴らしていた。
彼の手が好きだ。
ベースの弦を力強く押さえる指、、ピックを握って浮かび上がった関節。
太い弦を押さえているのに、まったく豆もタコも出来ていないきれいな指先を雑誌で見つけたときには驚いた。
自分が学校の音楽の授業でアコースティックギターを弾いたときにはすぐに豆が出来てはつぶれて、でも痛みを我慢しながら弾くとまた豆が出来てはつぶれての繰り返しだったのだ。
あの手が、今もベースを弾いている。
そういえば撮影のときに差し出された手は柔らかかったな、と思い出してすぐにぶんぶんと頭を振った。
隣の人が訝しげに視線をよこしたけれど、二曲目に移っていくと同時に彼女も自分もまたステージに釘付けになる。
今はとにかく何も考えずに、この身を震わせる音に浸っていたかった。
楽しい時間というのはいつでもあっという間で、マイク越しのシェイドの声がこの曲で最後だと告げると会場からいっせいに悲鳴が上がった。
苦笑しながらもまたすぐに会えるからとシェイドが告げれば、また違った悲鳴で会場が満たされる。
それに応えるようにブライトがベースを弾けば、レインはまたも爆音に飲み込まれていく。
耳に心地よく響くシェイドの声、けれど自分がつい追ってしまうのは体を震わせるようなベース音だった。
リズムを取ってうっとりと浸っていたら、それもいつの間にかふつりと消えてしまう。
別れを惜しむ声が客席のそこかしこから聞こえた。
事前通達どおりのミニライブはそれこそあっという間で、アンコールもないから笑って手を振りながらステージを去っていくブライトについ手を伸ばしてしまう。
ちょうどそのとき指の先に見えたブライトが、ジャケットのポケットを探って何かをばら撒いた。
ピックだ、と理解したときには既に別の誰かの手に収まっていて。
大きな会場でのライブ中にバズーカから放たれるロゴ入りのテープはレインも何度も手にしたことがあるけれど、彼らの手から直接投げられる何かを取れた事はなかった。
今回も無理だったかなとあきらめ半分もう一度ステージを見やれば、にこりと微笑むブライトと目が合った。
たぶんこの辺一体の全員が思ったことであろうそれをレインも思う。
いいのだ、こーゆーことは所詮自己満足だ。
弁えているつもりでも、つい顔がにやけてしまう。
これで気持ちよく帰れると思っていたところに、ブライトがもう一度何かを投げた。
反射的に手を伸ばす、とそれはキレイな放物線を描いて、レインの手の中にすとんと納まった。
「…っ!?」
あまりの出来すぎな出来事にしばし声を失う。
恐る恐る握り締めた手を引き寄せてからそっと開けば、確かにそれはそこにあった。
角が丸みをおびた逆三角形のそのピックは、光沢のある濃紺の地にシルバーのインクでJ.Moonのロゴが印刷されている。
物販でもピックは割と人気があって今まで何種類か販売されているのは知っていたが、いつかステージから投げられたものがほしいと思ってファングッツでも唯一ピックだけには手を出していなかった。
それが、こんなカタチで願いがかなうなんて。
それも、こんなときに。
複雑な思いでピックのふちを指でなぞり、なんとはなしに裏返してみた。
そこには同じシルバーの印刷でブライトの名前があった。
「…なに、これ」
最初は汚れかと思った。
そんなに汚れるほどの使用済み品―たとえば今のライブ中に使っていたとか―だったら嬉しいけれどと思ったが、よく見れば黒いマジックか何かで書かれているようだ。
『to R』
手書きで書かれた文字がそこにはあった。
ファンに向けてならばtoFとかFANとかそのまま書くだろうに、Rとは。
「レイン、へ…?」
まさか、と思って首を振った。
そんなこと、あるわけがない。
そもそもこのイベントに来ていること自体知らないはずだ。
まさか知っていてもどうしてそんなこと…と思いかけて、心当たりを思い出す。
この前ブライトに告白されて、でも信じられないからと自分が返した答えは否だった。
その気持ちを信じさせるためにやったのだとしたら…?
嘘だ、それこそありえないと何度も首を振る。
気がつけばステージは空っぽで、会場を後にするものが多くまばらになってきていた。
「ちょー嬉しい!」
「いいなーあたしも欲しかったなぁ…」
ふと近くで声が聞こえて、それがきっと同様にピックを受け取った誰かの会話だと悟った。
つい気になって声をかけてしまう。
「あの、良かったら見せてもらえませんか…?」
「え? あ、いいですよー」
よっぽど嬉しかったのだろう彼女は、突然話しかけた見ず知らずのレインにも警戒することなく微笑みかけてくれた。
ライブ後の独特の高揚感も手伝っているのかもしれない。
ともかくありがたく受け取ったレインは、その彼女が投げられたピックを見つめた。
なんの変哲もない、自分が持っているものと同じそれ。
けれど何度裏返したり角度を変えてみてみたりしてもただのピックで、手書きの文字らしきものは見えなかった。
「あの…もういいですか?」
「あ、ごめんなさい! ありがとうございました」
あまりにもまじまじと見ていたレインにさすがに不審に思ったのか声をかけてきた彼女に、慌ててそれを返すと、二人は連れ立ってそそくさと去っていった。
頭の中を何度も、まさか、でも、が繰り返す。
まさかそんな、信じられるわけがない。
自分のためだけに、ブライトがピックを投げたなんて。
でも、ほかのピックには、何も書かれていなかった。
Rはレインなんじゃないか、信じてもいいんじゃないか。
ぐるぐるとした思考が止まらず、足元もふらふらとおぼつかない。
けれど目の前には、一部のファンによる出待ちの列があった。
きっと出てくることはないのはわかっている。
自分が大好きなブライトが出てくるかもしれないと思うと一緒に並んでいつまでだって待っていたいと思うし、自分だってアイドルの立場上出待ちされるのは嬉しくないわけではなかった。
けれど会場などにかかる迷惑や結局彼らの移動に支障が出ることを考えるとあまり混ざる気にはなれない。
それなのに、その隅にぽっかりと空いた場所がまるで自分を呼んでいるようで、ついつい足が向かってしまう。
過去、レインも何度も出待ちをしていたことがある。
けれど自分が芸能活動を始めてからは、バレるのを避けるためと演者側の都合を考えるようになったことと両方の理由で自粛していた。
久しぶりのそこは、皆がJ.Moonのファンということもあってかどこか和やかな空気がありつつも、ライブ後に二人が出てきてくれるのではないかという微かな期待に一種独特の熱気があふれていた。
そんな空気に浸るのももちろん久しぶりだ。
以前は純粋に、大好きなブライトへ大きく手を振っていたのに、今は。
握り締めたピックを複雑な思いで見つめた。
嬉しい、けれど。
今までファンとして好きだったから、悲しいときもつらいときも嬉しい時だって、彼らの曲に励まされてきた。
それが目の前で、大好きなブライトが「好きだ」と告げてくれて、それはたぶん恋愛感情からの気持ちで。
確かに信じられなかったけれど、それに素直にYesと答えられなかったのは、たぶん戸惑ってしまったからだ。
そりゃファンなのだから、付き合ってみたいとか愛されてみたいとか考えてみたことはないとはいわない。
それを突然目の前に突きつけられて―…。
また沈み込みかけた思考を、周りから黄色い歓声が上がってはっと我に返る。
「シェイドーーーーー!!」
「ブライトー! こっち向いて!!」
なんとそこには、当のJ.Moonのふたりがにこやかに出てきたではないか。
今まで出待ちをしていて、ファンサービスに出てきてくれたことなんか一度だってなかったのに。
あ、また目が合った。
ゆっくりとファンと握手をしたりサインに応えたりしながらこちらに近づいてくるブライトと目が合ったと、また勘違いをする。
やめて欲しい、そんなにタイミングよく出てきて自分を揺さぶるのは。
いっそこの場を立ち去ろうかとも考えるが、足が動かない。
そもそもそんなこと、自分に出来るわけがないのだ。
思考回路だけがぐるぐると回り、結局答えも出ず、そうこうしているうちにブライトがすぐそこまで来ていた。
これもまた反射的に、ピックを握った手をブライトに差し出して彼の名を呼んでいた。
『レイン』
今度こそ本当に目が合って、ふわりと笑った彼の口元が、声には出さずに自分の名を呼んだ。
あぁ、気づいてたんだ。
それがわかった瞬間に、体中を甘い痺れが駆け抜ける。
どうして気づかなかったんだろう。
どうしてさっさと認めずに、うじうじと言い訳ばっかり考えていたんだろう。
こんなに、ブライトが大好きなのに。
「これで、信じてくれる気になった?」
ピックを差し出すように伸ばした手をそのまま掴まれ、ふわりと抱きしめられる。
途端に上がった周りの喚声よりも、耳元にささやかれたブライトの声に心臓がどきどきと異常ないくらいに跳ね上がって、ただこくこくと頷くしか出来なかった。
「わたしも…大好きですっ」
『片思い卒業記念』